第36話    刀と庄内竿   平成16年12月12日  

幕末の庄内の釣の指南書「垂釣筌」を書き記した陶山槁木(陶山七兵衛儀信 1804~1872)は庄内藩の300石の上級武士である。さらに私的な釣や鳥刺し等の覚書、感想等をこまめに書き綴った「野合日記」は幕末の軍学者秋保親友でこの人物も400石取りの上級武士である。幕末の戊辰戦争で活躍し150石の中級武士から身を起こし、お側用人から後に家老にまで立身出世し家禄900石取りになった臥牛こと菅実秀(1830~1903)は幕末から明治初期にかけての庄内釣り代表する名人の一人であった。

庄内藩では幕末の世相の慌しい時でも、何故に下級武士から上級武士まで釣が出来たのであろうか? 風雲急を告げる幕末において、釣をする事などと云う事は他藩では考えられ難い事である。そのヒントは釣りが、庄内藩では「武道」の一つ「釣道」として捉えられていたことである。殿様の浜遊びの釣りに始まり、釣が盛になるにつれ彼らの歩いた山越えの道は片道12`から遠くは40`でその長い道程は結構な足腰の鍛錬にもなった。そんな釣を藩が奨励していたからである。だから藩庁に届出さえすれば誰に遠慮はばかることなく堂々と釣りに行く事が出来たのであった。四間 (7.2m)と長いノベ竿から小竿まで数本を肩に担ぎ、てんご(魚籠)等を背負い、腰には重い大小の刀を差しての釣である。正に行軍の予行練習と同じようなものである。マズメの釣に間に合うようにするためには、午前二時、遠くに出掛ける時には前日の11時頃には鶴岡を出立したとも伝えられ、大いに夜間の歩行訓練ともなった。釣り好きの武士たちが多かったせいなのかは分からないが、幕末の戊辰戦争では奥羽列藩同盟の諸藩が次々と負け戦をしていた時、23戦して23勝と云う大きな成果を収め、唯一負け無しで戦争を終結させた藩でもあったのだ。事に庄内藩では足腰を生かした神出鬼没のゲリラ戦を得意としたと云う事も伝えられている。

そんな庄内では武士の釣、釣道であったから、当然釣竿も武士の魂の刀と同然の扱いを受けた。庄内竿を跨ぐと云うことは、刀を跨ぐと同じであったから当然行ってはならぬ事として考えられた。そんな事が明治、大正に入っても続けられていたと云われている。秋保親友が「名竿は刀より得難し」と書いているように、名竿ばかりはいくら高い金を出しても得られるものではない。名竿を求めて必死になって武士たちは庄内の竹藪をくまなく探し求めた。竹薮の中に道が付けられたと云う程に武士たちが通ったと云う逸話さえ残る。そんな「名竿は子々孫々に大事に伝えるように・・・」との秋保親友の言葉も残されているくらいである。

その結果、庄内では名竿は大事にされ師匠が釣が出来なくなったり、亡くなったりすると遺言竿として弟子に引き継がれ大事に使われたと云う習慣が残る。時には生きている中から、竿の引継ぎが孫弟子、曾孫弟子まで決まっていたと云う話もあるくらいであると云われる程に順番が決まっていたと云う逸話さえも残っている。そんな庄内竿も最近では滅多にお目にかかるチャンスは少なくなった。その最大の原因は竿の手入れが出来る人の減少と手入れをする必要のないカーボンロッドを使う人が多くなったからである。